横山 操(よこやま・みさお):

大正9年〜昭和48年1920〜1973)
 戦後の日本画における風雲児と呼ばれる。
はじめ西洋画を学び,師の勧めで日本画に転向,川端画学校日本画部に入学した。
二十歳の時に第12回青龍展に入選するが軍隊に召集され,戦後しばらくはシベリアに抑留されていた。
30才になり,制作を再開する。力強い奔放な筆は輪郭線を多用したり,抽象的な形態を見せる時期を通り過ぎ,深遠な水墨画の世界へたどり着く。
71年に脳卒中で倒れ右半身不随となったが,左手で描く練習を積み,その秋から再開するも73年再び倒れて53才の生涯を閉じた。
<主な作品及び資料>
 「炎々桜島」1956(昭和31年) 「十勝岳」1962(昭和37年) 新潟県美術博物館
 「ウォール街」1962(昭和37年) 東京国立近代美術館
 「雪原」1963(昭和38年) 佐久市立近代美術館
 「瀟湘八景 烟寺晩鐘」1963(昭和38年) 三重県立美術館
 「越路十景 出雲崎晩鐘」1968(昭和43年) 「海」1963(昭和38年) 山種美術館
 「溶鉱炉」1956(昭和31年) 福岡市美術館
 「高速4号線」1964(昭和39年) 「朔原」1959(昭和34年) 新潟県美術博物館
 「闇迫る」1958(昭和33年)福島県立美術館 
 「茜」1973(昭和48年)

HP 日本の作家より

日本画家。石川雅山のもとで版下作成やポスター描きをしながら、絵を学ぶ。
豪放な筆致とあらあらしい直線的な表現によって、建造物や火山などを描いた大作で受賞を重ね、戦後混迷期の日本画壇において一躍寵児として注目を集めた。
昭和34年(1959年)日本国際美術展で「峡」が優秀賞を受賞。
昭和46年(1971年)脳卒中で倒れ、回復後は、左手による制作を続けた。
HP 生きる力になる言葉より